流鏑馬は、なぜ「神事」なのか。
奉納という行為に込められた、千年の作法
『日本書紀』西暦四五六年の記述から、現代に続く奉納神事まで。
各地の社で重ねられてきた、神事としての流鏑馬を読み解く。
流鏑馬は、本来「神事」である。馬を駆り、矢を放ち、的を貫くこの所作は、競技でも見世物でもなく、まず神々と人とを取り結ぶ儀式として、この国の歴史にあらわれた。だからこそ流鏑馬は、千年以上にわたって神社の境内で行われ続けてきた。本記事では、「奉納」という行為がそもそも何を意味するのか、なぜ流鏑馬は神事となったのか、どこで観ることができ、観るときに何を見ればよいのかを、ひとつずつ解き明かしていく。
- 流鏑馬は競技ではなく、もとより神事として始まった奉納の儀式である
- 「奉納」とは、神に物・芸・武を捧げる日本の祭祀文化の根本
- 三本の矢に託される願いは、五穀豊穣・天下泰平・武運長久の三つに集約される
- 鹿島神宮・秩父神社・鶴岡八幡宮・城南宮など、現代も奉納が続く社が各地にある
- 観るときは、装束・馬・的・所作のそれぞれに込められた意味を読み解くと、神事の深さが見えてくる
「奉納」とは何か ── 神に捧げる、ということ
「奉納(ほうのう)」とは、神社や寺院に対して、物品や所作を捧げ奉る行為のことを言う。語源は「奉(たてまつる)」「納(おさめる)」── すなわち、自分が持っているものを、神々や仏の前に差し出し、納める。日本の祭祀文化のもっとも根本にある行為である。
何を奉納するかによって、奉納はおおむね三つの系統に分かれる。物品の奉納(米・酒・絹布・刀剣・神馬など)、芸能の奉納(神楽・舞楽・能・狂言など)、そして武芸の奉納(流鏑馬・相撲・蟇目神事など)である。流鏑馬は、この第三の系統に属する。
いずれの奉納にも共通するのは、それが「神々への報謝」と「祈願」のために行われるという点である。豊作や平穏への感謝、息災や武運への願い──そうした思いを、形あるもの、あるいは身体の所作として神前に差し出すのが、奉納という行為の本質である。
言葉で願うのではなく、米を捧げ、舞を舞い、馬を駆って矢を放つ。日本人は古くから、感謝や願いを「形あるもの」に変えて神前に差し出してきた。流鏑馬は、その身体をもって神に捧げる行為の、もっとも荘厳な形のひとつである。
なぜ流鏑馬は神事となったのか
『日本書紀』西暦四五六年 ── 「馬的射」の初出
馬上から矢を放つ騎射の儀式が、最初に文献に記されるのは、奈良時代に編纂された『日本書紀』である。雄略天皇紀の西暦四五六年(雄略元年)に「馬的射(うまゆみ)」という言葉が登場する。これは、鎌倉武者が「やぶさめ」と呼び始めるよりも、実に六百年以上前のことである。
当時の「うまゆみ」は、軍事訓練という側面を持ちながら、同時に神々に捧げる儀式でもあった。古代日本において、馬は神の乗り物とされ、矢は邪気を祓う霊力を持つと考えられていた。神馬を駆って矢を放つ──これは古代の人々にとって、もっとも力強い奉納の形だったのである。
平安・鎌倉 ── 武家信仰との結びつき
平安時代後期、白河上皇が城南離宮で催した騎射の様子を記した『中右記』(一〇九六年・永長元年)に、「やふさめ」という呼称が初めて登場する。同時期、関東では武家の台頭とともに、騎射は単なる軍事訓練を超えて、武家の信仰的な儀礼へと発展していった。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、一一八一年(養和元年)に鹿島神宮へ神馬と鞍を奉納し、同年五月に鹿島家家臣を射手として流鏑馬祭を催している。これが現在の鹿島神宮流鏑馬神事の直接の起源とされる。以後、鶴岡八幡宮をはじめ、武家の崇敬を集めた社では流鏑馬が恒例の神事として定着していった。
つまり流鏑馬は、古代の神々への奉納に、武家の信仰が重なり合うことで、現在に伝わる神事の形が整えられていったのである。
三本の矢に託される、三つの願い
流鏑馬では、射手が馬を駆りながら、馬場に立てられた三つの的を順に射抜く。この一本ずつの矢には、それぞれ別の願いが託されている。五穀豊穣・天下泰平・武運長久──いずれも千年来、変わることなく神前に奉ぜられてきた、流鏑馬の根幹をなす三つの願いである。
五穀豊穣
米・麦・粟・豆など、人々の暮らしを支える穀物の豊作を願う。的を射抜くことで「実りが結ばれる」と象徴される、もっとも生活に近い願い。
天下泰平
国土の平穏、世のあまねき安寧を願う。武家政権の時代から続く、為政者が神前に奉じてきた願い。乱れない世が続くことを、矢に託す。
武運長久
かつては武人が出陣・戦勝・武運の長きことを願った。現在は形を変え、修行の継続、心身の練成、そして稽古の継承へと願いの中身が引き継がれている。
馬出しから三的を駆け抜けるまで、わずか二十秒ほどの所作のなかに、この三つの願いが順に奉ぜられる。五穀豊穣・天下泰平・武運長久。神事としての流鏑馬は、この構造を背負ったまま、千年のあいだ受け継がれてきた。
主要な奉納神社 ── 各地に残る、奉納の場
現代の日本においても、流鏑馬奉納が継続して行われている神社は各地に存在する。なかでも歴史的・文化的に重要な社を、ここに紹介する。
このほかにも、近江神宮(滋賀)、富士山本宮浅間大社(静岡)、唐沢山神社(栃木)など、各地で流鏑馬奉納が伝えられている。各地の社のひとつひとつに、その土地の信仰と結びついた奉納の系譜が息づいていること──それが、流鏑馬という神事のもうひとつの大きな魅力である。
観るときに、何を見るか
流鏑馬の奉納神事を初めて観るとき、ただ「馬が速い」「矢が当たった」というだけで終わってしまうのは、もったいない。装束も、馬も、的も、所作も、ひとつひとつに意味が込められている。観るときに目を向けたい五つの観点を、ここに紹介する。
射手が身につける狩装束(綾藺笠・直垂・行縢・射籠手など)は、鎌倉武士が実戦と狩猟で用いた装束に由来する。色や紋様には流派や役目の違いが込められており、神前であるがゆえの簡素さと、武人としての凛々しさが同居する。
古くから神社で奉納に用いられてきたのは、日本固有の在来馬(和駒)である。木曽馬、北海道和種など、この国の風土が育んだ馬たちは、大柄な洋種馬とは異なる重心と気質を持ち、神前の所作にふさわしい落ち着きを見せる。
通常は四角い板の的が用いられるが、神事のなかには素焼きの土器(かわらけ)を的とする例もある。土器を割ることで邪気を祓う、板を貫くことで実りを結ぶ──的それぞれに、込められた象徴がある。
馬場は単なる走路ではなく、神前へとつながる「神へ向かう道」である。多くの社では馬場の起点に「馬出し」、終点近くに「的場」が設けられ、その間およそ二百メートルほどを射手は一気に駆け抜ける。境内の地形や参道との関係を観ると、奉納の構造が立ち上がってくる。
射手が馬場本から馬を出し、三つの的を駆け抜けるまでは、わずか二十秒ほど。短い時間のなかに、姿勢の整え、矢の番え、放ち、次の的への切り替えという所作が凝縮されている。観るときは、馬蹄の音、矢の音、的の割れる音──三つの音にも耳を澄ませたい。
これらの観点を持って観ると、流鏑馬は単なる「武芸の見世物」ではなく、千年のあいだ磨かれてきた、身体をもって神に捧げる神事として立ち上がってくる。観賞者もまた、その場に立ち会うひとりとして、奉納の一端に連なっている。
現代に続く、奉納の意義
近代以降、流鏑馬奉納は一度、各地の多くの社で衰退の時期を迎えた。明治の神仏分離、戦中・戦後の社会変動を経て、神事としての流鏑馬を継続できる社は、ごく一部に限られていた。
しかし平成以降、各地で復興の動きが相次いだ。二〇〇五年に城南宮で八百年ぶりに流鏑馬奉納が蘇り、二〇一四年には秩父神社で七百年ぶりの復活が果たされた。これらは単なる「過去の再現」ではなく、現代に生きる人々が、ふたたび神前に馬を奉ずるという、新たな出発でもあった。
流鏑馬奉納は、過去の遺産ではない。各地の社で、いまも続けられている神事である。観るという行為もまた、その神事を支えるひとつの形である。
流鏑馬は、もとより神事であった。神々の前で馬を駆り、矢を放ち、的を貫くことで、年の穢れを祓い、五穀豊穣を願い、天下泰平を希う。倭式騎馬會が「流鏑馬奉納」を活動の中核に据えるのは、この奉納の系譜に連なるためである。
— 倭式騎馬會倭式騎馬會がこれまで各地の社で重ねてきた奉納の足跡については、別ページ「流鏑馬奉納の活動」にて詳しくご覧いただける。
あわせて読みたい
REFERENCES
『日本書紀』雄略天皇紀/『中右記』/『吾妻鏡』
『延喜式神名帳』/『鹿嶋志』/鹿島神宮社伝
各神社公式資料(鹿島神宮・香取神宮・城南宮・上賀茂神社・鶴岡八幡宮・秩父神社・出雲大社)
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