うまゆみとやふさめ
「騁射」から「流鏑馬」へ
千年を超える騎射の歴史
同じ「馬上から矢を射る」武術でありながら、
「うまゆみ」と「やふさめ」はその起源も意味も異なります。
鹿島神宮で毎年五月一日に奉納される「鹿嶋流うまゆみ」。この神事の名称に用いられる「うまゆみ」という言葉は、多くの人が耳にする「流鏑馬(やぶさめ)」とは全く別の歴史的起源を持っています。千年以上にわたって武道の神・武甕槌大神を祀る鹿島神宮に受け継がれてきた騎射の歴史を、文献と史実から紐解きます。
「うまゆみ(騁射)」は西暦456年の『日本書紀』に登場する、日本最古の騎射の呼称です。一方「流鏑馬(やふさめ)」は1096年に武家社会で整備された騎射様式として広まりました。本記事では、両者の起源と呼び名の違い、公家・神事・武家それぞれの騎射の歴史を文献をもとに解説します。
日本最古の騎射の記録 ―― 西暦456年
馬上から弓矢を射る行為が日本の文献に初めて登場するのは、西暦456年に編まれた『日本書紀』です。安康天皇二年の条に、漢文で次のように記されています。
「市。聊娯情以騁射。辺押鋳磐皇子乃随馳猟。於是大泊瀬天皇彎弓驟馬」
— 『日本書紀』 安康天皇二年条この一文に用いられた「騁(はせ)」の字が、馬を馳せて馬上から弓矢を射つ意として、日本の文献で「騎射」を表す最古の用例です。第二十一代・雄略天皇が、皇位継承争いのライバルである市辺押磐皇子を、狩猟に誘ったうえで馬上から矢で射殺したという事実を伝えており、天皇自身が馬上武術を心得ていたことを示す貴重な記録です。
「騁」は「馬を馳せる」、「射」は「弓矢を射る」の意。すなわち「馬を走らせながら弓矢を射る」こと。『日本書紀』が用いたこの漢字表記が、のちに「うまゆみ」と読まれ、鹿島神宮の神事名として今日まで受け継がれています。白河上皇が「やふさめ(流鏑馬)」という言葉を使うより、実に二百五十年以上も前のことです。
その後、端午の節供(五月五日)に宮中で天覧騎射が行われるようになり、天武天皇九年(680年)には奈良県の御所・朝嬬にて馬上から的を射させる儀式が行われたと『日本書紀』に記されています。この頃から「騎射」を「うまゆみ」「騎射の節」と呼ぶ習慣が定着し、国家的な行事として整備されていきました。
鹿島神宮と「うまゆみ」の誕生
初代・神武天皇の頃に創建されたとされる鹿島神宮は、東国最古の宮です。武道の神・武甕槌大神を祀るこの社は、古来より武人たちの崇敬を集めてきました。鹿島の鹿と馬は神聖な動物とされる伝統があり、特に流鏑馬(騎射)は、鹿島家の惣大行事家と鹿島神宮あげての大切な神事として受け継がれてきました。
西暦940年(天慶三年)、東国独立を目指して京都の朝廷に反旗をひるがえした平将門の討伐に際し、平貞盛公から勅宣を受けた藤原秀郷公は、居城・唐澤山(現栃木県佐野市)を発ち、鹿島神宮に三十日間参籠して武甕槌大神に祈願。見事討亡を果たした後、その戦勝を感謝する騎射奉納行事を執り行いました。鹿島の歴史書『鹿嶋志』は、この奉納行事を「鹿嶋流うまゆみ」のはじまりとして伝えています。
東国の武士団は木曽馬や南部馬を調教し馬上で戦える術を磨いていました。源氏の棟梁・八幡太郎義家が中心となり、貞純親王以来の迎来流(こうらいりゅう)に更なる改良を加えて「鹿嶋流」を名乗り、騎馬術を確立。鹿嶋神宮に出入りした武人たちがこの武神のもとに集い修行し、鹿島神宮は「武の中心」となっていきました。
「やふさめ」という言葉の登場
「流鏑馬」という言葉と漢字表記が初めて文献に現れるのは、藤原秀郷による鹿島騁射奉納から実に百五十年後のことです。白河上皇が鎌倉幕府成立(1192年)より前の一〇九六年(永長元年)、城南離宮(京都南)の馬場で初めて「城南流鏑馬」を催した際、その様子を記した公卿の日記『中右記』に「やふさめ」という言葉が初めて登場します。
白河上皇が城南離宮馬場殿にて「馬に乗って鏑矢を射流す」を初めて『中右記』に「やふさめ」と表現する
— 『中右記』 永長元年(1096年)それ以前、馬上からの騎射は長らく「うまゆみ」と呼ばれていました。白河上皇の城南流鏑馬で活躍した射手の中には、藤原秀郷流九代嫡家・佐藤義清(のちの西行)もいたとされます。西行はのちに源頼朝の自邸を訪ね、夜を徹して秀郷流や弓馬故実を伝授したといわれています。
やがて源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると、一一八七年(文治三年)の鶴岡八幡宮放生会において、秀郷流射法で初めて武家式の流鏑馬を奉納。宮廷主催の「うまゆみ」と差別化するため、武家主催のものを「やぶさめ」と呼ぶ名称が定着していきました。
騎射の歴史 主要年表
UMAYUMI
騁射(うまゆみ)YABUSAME
流鏑馬(やふさめ)なぜ「うまゆみ」にこだわるのか
倭式騎馬會が「やぶさめ」ではなく「うまゆみ」の名を用いるのには、明確な理由があります。「流鏑馬」という言葉が生まれる二百五十年以上前から鹿島の地で育まれてきた「うまゆみ」の本来の姿、すなわち鎌倉武者が創造する以前の、より古い日本の騎射の形を探求・復元することが会の本旨だからです。
倭式騎馬會では、弓馬術・騎馬太刀術も乗馬術の一部であるという視点から、武神の元で鎌倉武者が創造した形を絶滅危惧種の和駒(日本在来馬)とともに復興しようとしています。現在千五百頭ほどしか残っていない和駒に乗り、古式の射法で馬場を駆け抜ける姿こそが、千年以上変わらぬ「うまゆみ」の醍醐味です。
静寂な闇の中から生まれる流鏑馬の原点 ―― 騎射、あくまでも日本の馬、和駒にこだわる。その所以は、日本の山河・天地・歴史的な環境空間に配置された和駒の文化的空間を本分とするがためである。
— 倭式騎馬會 会長 森 顯鹿島神宮での「鹿嶋流うまゆみ奉納神事」は今年で二十一回目を迎えました。鹿島家三十五代当主・鹿島泰明惣大行事家のもと、五穀豊穣と武運長久を祈りながら、この千年の伝統を次世代へと繋いでいきます。
REFERENCES
『日本書紀』/『続日本紀』/『中右記』/『吾妻鏡』
『鹿嶋志』/『大坪本流雲霞集乾』(江戸時代・文化年号)
『常陸風土記』/『万葉集』
本記事は、倭式騎馬會が鹿嶋流うまゆみ奉納神事への参加・継承活動を通じて得た知見と、各種文献をもとに構成しています。
